6月20日、34年前に働いていた会社の1年後輩の女性からラインでメッセージが届いた。「今日は悲しいお知らせです。私と同期だったS.Kさんが亡くなりました。今日お葬式でした。。。」
数年前に子宮癌が見つかり、手術後さらに転移があり、2年前には会社も辞めて実家に帰っていたらしい。56歳。早すぎる。
1982年、私は大手自動車会社にデザイナーとして入社した。女性デザイナーは10数年ぶりとかで、かなり期待されていたのだが、運転免許ももたず自動車に全く興味がなかったのだけど、ただただ九州から東京に行きたくて、親を納得させる大義名分としては出来すぎる会社だったので、流れに任せて入社してしまった。今、就職難で苦労している若者たちには申し訳ない話である。『私みたいに全く車に興味がない人でも興味がある車がデザインできたらいいんじゃないの?』なんて、全く気楽に、本気で車を愛するデザイナーたちには、許せないようなとんでもないアイディアを出し続け、ものすごくバッシングを受け、却下され続け。。「お呼びでない?こりゃまた失礼しました~~♪」と、さっさと退職を決めてしまう。大学の先輩で今ではデザインセンター長を務める優秀なN氏も「向いてないことは、無理しないほうがいいよ」と、あっさり退職を納得。
しかし、私の1年後に入ったS.Kさんは、全く違った。車が大好きで、特にスポーツカーが大好きで、男社会の中でも負けずに頑張り続けた。それでも、やっぱり会社の方針などに納得がいかず「もう辞めたい」と、前出のN氏に相談したところ、「じゃあ、しばらくイタリアにでも行ってみる?」と1年間ミラノ勤務を薦められる。(私とはエライ違いだが、それだけ彼女が会社に必要とされていたのだ!)
会社を辞めて、東京の有名グラフィックデザイナーの下でアシスタントデザイナーとして働きながら『私って、デザイナーよりディレクターとかプロデューサーとかのほうが向いているじゃん』と、若気の至りで全く怖い物なしだった私は、当時つきあっていたアーチストの卵と一緒にNYに渡米。NYのデザイナーやカメラマンのアシスタント、ツアーガイドなどをしながら、日本のデザイン専門雑誌のライターになり、NYのデザイナーや建築家たちとのネットワークを広げていった私は、デザインコンサルタントという訳の分らん肩書で、1年半で辞めた会社からも、しっかり仕事をもらい、モーターショーやリサーチでNYに出張してきたS.Kさんと何度か会い、情報交換していた。ミラノからもどったS.Kさんは急にあか抜けて、カーデザイナーとしても貫禄がにじみ出るようになってきた。しかし、企業で女性デザイナーとして活躍する中で、後輩デザイナーの中には、「ケチ!」とか「パワハラ」とか言う人もいて、やっぱり大企業で女性が頑張るというのは大変なんだ。。と思っていた。
そんな中、数年前からS.Kさんは、内臓の病気で入院と退院を繰り返している事。それでも、部長になるのを目標に頑張っている事等を、風のたよりに耳にしていた私は、心の中で『無理しないで』と言い続けてきた。
5年前に帰国した私は、何度か彼女に連絡しようとしたけれど、彼女のほうからメールが来るまでは、そっとしておこうと思っていたそんな中で、彼女の訃報を、彼女の同期だった女性からラインで受け取る。
その後、私と同期だった女性に「S.Kさんの訃報を知りました。残念です。」とメッセージを送ると、彼女にはまだ連絡が入っていないという。30数年間働いてきた会社でも、2年前に辞めてしまえば、そんなものなのか。。
6月20日。S.Kさんは、静かに家族葬で送られていったらしい。いつか京都のおいしい鱧料理を一緒に食べようと話していたS.Kさん。まだまだ、やりたい事たくさんあったでしょう。大学に一浪で入ったS.Kさんは、職場では後輩だったけれど、同じ年で、私よりもずっとまじめに歯を食いしばって頑張って来た人なのに、、ちゃらんぽらんとギャンブル感覚で毎日好きな事だけやりながら生きてきた私が、まだここに居るのに。。なんて世の中不平等なんだろうと思う。
という私も、子宮に筋腫をいくつか抱えていて、それらが悪性になったらどうしようと思いながらも、頑固に子宮摘出はしないで、食事と漢方とアルコールで戦い続けているので、先のことはわからない。
何だか、人生って、頑張っている人、そうでない人、勝ち組、負け組に関係なく、平等にいつか死がやってくるロシアンルーレットみたいだと、思うようになった。
S.Kさん。お疲れさまでした。どうか、安らかに永眠してください。
2015年6月21日日曜日
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